最速の男:なかかみ

「速い速い!世界陸上男子100mを制したのは、山本選手!タイムレコードは9秒01!またも世界記録を塗り替えました!」

都内の雑居ビルの一室で俺が出場した世界陸上の録画が流れている。
「困るんですよねぇ、山本さん」
目の前にいる黒服の男がサングラスの奥からこちらを見つめる。
「負けてくださいってお願いしましたよね?丁寧に奥さんへの誕生日プレゼントもつけて」

日本の裏社会が取り仕切るスポーツ賭博。ブックメーカーを操る組織から”お願い”があった。次の世界陸上で、2位になってくれないか?と。
ご丁寧に妻の聡子の写真付きで。

「今はまだ奥さんに手出しはしていません、身柄は確保させてもらいましたが。次のオリンピックではきっちりお願いしますよ」
再び八百長の依頼をされたが、その契約を受け入れられない理由があった。
俺は2位にはなれないだろう。
辺りを確認して、聡子が近くに、少なくともこのビルにはいないことを確認して覚悟を決めた。
最後まで日本の警察頼みか。結局、聡子のことを大切にしてあげられなかったな。
すまない、と口元でつぶやき片膝を地面についた。

「いやいや、山本さん今更土下座なんかされてもねぇ」
膝をついたまま両手を地面につける。位置は肩幅より少し広めだ。
これは土下座ではない。スタートを切るためのフォーム。
「俺はもう、速く走ることしかできないんだ」
速く、より速くなるために悪魔と交わした契約。
その願いは叶えられたが、肉体が悲鳴をあげようとも遅く走ることの許されない、不可逆の呪いでもあった
「……アニキ! なんかこいつ光ってますぜ!」

地面についた手をピンと伸ばし、片膝を立てたまま尻を上に持ちあげる。
クラウチングスタート。
大腰筋、大腿直筋、ハムストリングス。より速く走るための人体機能が強化されていく。
速く、速く、より速く。おおよそタンパク質からなる物体では到達できないはずの速さを実現するだろう。
このあたり一帯を衝撃波で吹き飛ばす威力。俺の体も粉々になるだろう。
太もも、ふくらはぎ。下半身の筋肉が隆起していく。
通常の物理法則を無視した肉体変化に、筋肉は発光していた。
両足のつま先はビルのコンクリートへえぐりこまれている。
この鉄筋コンクリートが俺のスターティングブロックだ。
黄金のスタート。できれば悪魔との契約なしに聡子に見せてやりたかったな。

「……On your mark, Set.」
ドン、っと轟音が辺りに鳴り響く。
ビルの近く、組の車に囚われていた聡子は爆音とともに飛んでいく黄金の軌跡を目にした。

-–

「ロケットランチャーでもぶっ放したのか?隣の企業ビルに攻撃した結果、このビルにいたやつも衝撃波で木っ端みじんとは……理解に苦しむな」

攻撃を受けたビルからは、通常の2倍ほどの大きさの黄金に輝く大腿骨のレプリカが発見された。
調査の結果、未知の合金でできておりキズ一つついていなかったそうだ。


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