実妹だったけど、兄さんが好きでも問題ないよね:utatsu

 あの日を境に私は変わった。
 といっても、よくある心境の変化が訪れたわけではない。ただほんのちょっと味の好みが甘め路線になり、猫舌になり、数学の成績が上がり、長距離走に抵抗がなくなった程度だ。
 外面に関しては……わからない。なにせこちらはまだ高校生で、顔立ちと体型は刻一刻と移り変わる。成長によるものなのか、変化がもたらしたものなのか、はたまた私のダイエットの不足を唱えるものなのか、その判断をつけることは難しい。鏡に映る自分は、幼い日の私を想起させることには違いないので、実は何も影響がないのかもしれない。

 目が覚め、洗面台に向かって湿らせた顔を拭い、最近覚えた化粧に少しばかり時間をかける。台所の方からはフライパンとコンロのぶつかる金属音が聞こえた後、卵の焼ける匂いがした。兄さんの気配を感じつつ、自室に戻ってクローゼットにかけていた制服に袖を通す。手鏡で細部を確認しつつ、最後に指定のリボンで襟をとめる。よし今日もかわいい、何も問題なし。脱ぎ散らかさなかった先週の私を褒め称えたい、いつもの月曜日だ。
 食卓に向かうと、すでに朝ごはんが用意されていた。
「おはよう」
兄さんは視線をこちらに向け、口を開いた。すでにダークグレイのジャケットを身に着け、身支度を整えた上から、私の贈った無地のエプロンを纏っている。その姿に思わず頬を緩めそうになるのを耐え、挨拶を返す。
「おはよう。……いただきます」
 二人がけには大きすぎるテーブルの窓側の席に腰掛け、紫色の箸立てに手を伸ばす。私はできたての卵焼きをいっぱいに口に頬張り、こちらを観察している兄さんと目が合う。
「もう少し上品に食べなさい」
「……うるさい」
兄さんが悪いのだ。また一段と美味しくなった――正確には私の好みに寄った卵焼きの味に罪はないのだから。決して「美味しかったよ」なんて味の感想を言うことはないが、私の反応を見て色々と試行錯誤している節がある。今だって私に小言を放ちながらも、どこか満足げな表情をしているように見える。
 私はティッシュペーパーで口を拭きつつ気持ちを落ち着ける。……顔が赤くなっていないか心配だからじゃないから。そんな仕草さえ楽しそうに見ている兄さんに一言言ってやりたかったが、何も思いつかなかったのでやめた。

「そういえば、模試の点数見たよ。ほら僕の机の上に置いてくれてたやつ。校内順位2位なんてすごいじゃないか。僕が高校生だった頃は、そんな数字見たことないよ」
 定期テストや模試が終わる度に兄さんに結果を見せている。別に変なことじゃない、兄さんは私の保護者なのだから。褒めてくれるかもという期待、気にかけてもらえている実感が湧くことは否定できないけれど。
 私は返事の代わりに無言で頷く。本当は気の利いたことの一つや二つでも言いたいところだが、当時の兄さんの状況を思うと複雑な思いが込み上げてきて、うまい言葉が見つからなかった。なにせ高校時代の兄さんは私のためにバイトに勤しみ、ろくに勉強時間なんか取れなかったのだから。いや私のために、は傲りかもしれないが、少なくとも私達「兄妹」の生活を守ることに必死だった。それに比べると私がいつもより良い成績を取ることなんて些細なことだ。
「ただ志望校の欄なんだけど……遠慮することはないんだぞ。うちから通える大学にしてほしいなんて微塵も思ってない。東京や大阪の大学だって別に構わないからな。……奨学金はどのみち借りることなるのは申し訳ないけど」
兄さんのこの顔は本気で心配している顔だ。
「大丈夫だから。私が行きたいところだから、心配しすぎだよ」
「……そっか」
 そう短く述べて、これ以上話題とすることはなかった。兄さんも私が強情なことくらいわかっているのだ。
 かつて兄さんが高校生で、進路を決める段階になって、大学に行かずに働くことを私に話したとき、私は猛反発した。兄さんも兄さんで強情なため、私はその宣言を撤回できないか泣きながら訴えた。私のせいで大学を諦めるなんてありえないとか、亡くなった両親はそんなこと望んでいないだとか。説得は難航したが最終的に、私の兄さんを名乗りたいなら大学くらいは出てほしいという、本心と少しずれた主張が説得に実を結んだ。これで良かったのかと少しばかり悩んだが、結果4年間兄さんが楽しそうに大学でのことを話してくれていたため、杞憂になってほっとしたものだ。
 一瞬私も進路希望調査にこのまま就職なんて書くか考えたが、そんなこともあって断念した。また兄さんを困らせるだけだ。
 模試の志望校欄には兄さんと同じ大学を書いた。正確には第3志望欄にだけど、本当に行きたい大学って第1志望欄に書くのはなんだか気恥ずかしい。兄さんに見せる前提のある私だけかもしれないが。
「じゃあそろそろ僕は行く。今日は会社の飲み会で遅くなるので、僕の晩飯は大丈夫だから」
 それまで比較的上機嫌で朝のホットミルクを堪能していたところ、テンションが急降下した。ニュートンもびっくりの収束速度である。月曜日の晩ごはんは私の担当なので、実質的な問題はなく、なんなら作る人数が減って楽になるには違いない。せっかく改良を重ね少し自信のついたオムライスを食べてもらおうとしていたのに……なんてね。
 社会人の付き合いというやつだろう。仕方があるまい。無理やり自分を納得させつつ兄さんに応じた。
「……その飲み会、女の人いる?」
 わ。質問するつもりじゃなかったのに、思わず尋ねてしまった。もっと「何時に帰ってくる?」とか「何食べるの?」とかあっただろうに。こんなの「妹」がする質問としては落第点だ。せめて動揺する様だけは見せまいと構える。
「どうだろ、いると思うけど」
 返ってきたのは曖昧な返答だった。なんなのだこの男は。私の気も知らずに、いや伝わってしまっては困るけれどもう少しはっきりしてほしい。
「遅くならないように帰るから。あと気をつけて学校に行くように。いってきます」
時計を気にしながら兄さんは食卓をあとにして、玄関へと向かった。施錠音が聞こえてどこか安堵する。
「……いってらっしゃい」
静まり返った空間に呼びかけた。私も食器を軽く水につけ、学校指定の鞄に水筒を入れて家を出た。先程の質問の言い訳をずっと考えながら通学する羽目となったのは不本意である。

 賢明な読者諸君ならお気づきかと思うが、私は兄さんのことが好きである。いや、気が付かなくても諸君に問題はない(残念ながら積極性に欠けていることは自覚しているため)。
 7年前のあの日、両親を事故で亡くし打ちひしがれる兄妹は祈った。ひとりは唯一の肉親たる妹の幸せを願い、もうひとりは恋い焦がれた兄との久遠の伴侶となることを。一応、兄さんは私の祈りを知らないはずだ。
 神の気まぐれか、二人の願いは叶えられる。
 ある朝、目覚めた私には幽かな実感があった。目に映るものすべてに朧々たる違和感を覚え、私が私でなくなった感覚に囚われた。無論、鏡に映る自分は紛れもなく私で、胸が張り裂けるほど悲しいあの記憶、兄さんに対する淡い恋慕はそのままだ。私は私のままで、遺伝子レベルで体に変化が起こったというわけか。そしてすぐに気がついた――私はすでに兄さんの妹ではない。兄妹であって兄妹でない。親しい他人で、恋愛対象なのだと。
 兄さんにはこのことを伝えていない、伝えられるはずもない。
 けれど少しずつ意識してもらうくらい悪くないよね。


小説を書くのは久々ですが、楽しかったです。


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