図書館回廊を往く 前編:utatsu
ふと目を覚ますと、暗闇だった。埃っぽいこぢんまりとした室内で、英海はゆっくりと目を開ける。
寝息が聞こえる。
「――え」
隣には少女が寝ていた。少女はその体重を英海に預け、寄りかかる形で密着していた。長い黒髪の間から端整な顔立ちを覗かせ、ほのかに甘い匂いがする少女――橘青藍がそこにいた。
急速に冴えてくる思考を伴って、記憶の断片が徐々に揃っていく。
「本当に図書館で遭難するなんてな」
青藍から感じられる心地のよい熱は捨てがたいが、これではまずい。冷や汗をかきながら、英海は青藍を押しやり、ゆっくりと立ち上がる。
「心臓に悪いな」
小さく苦笑した。
まるで風穴のような肌寒い室内で、ふたり身を寄せ合うなど何事か。事の発端は昨日に遡る。
いよいよ冬も本番となるこの時期、魔術大学の多くの学生は来るべき試問に備えて、文献調査に実験に論文執筆に明け暮れる。冬の終わりの学内査読会で一定の成果が認められなければ、即留年が決まる。逆にパスしても特に得られる報奨はないので、不満の声も多いが。
そんな中、英海の所属する研究室も例外でなく、研究に関する議論や愚痴、はては息抜きの雑談が飛び交い、活気づいていた。
「先輩、ここの光線空間の制御術式についてよくわからないんです。何か参考になるものってないですか?」
青藍が論文を携え、師匠にあたる英海のもとに質問に来ていた。
英海たちの通う魔術大学には、例外なく上級生と下級生が師弟関係を結び、弟子に指導を行う制度がある。三年生の英海は一年生の青藍に魔術に関するあれこれを説く立場にある。
「ああ、これは難しいな。これほど広範に制御が求められると、いくつか調べないと……」
「そうですか……この研究室には文献とかないですかね?」
「多分ないだろうな」
「……がっくり」
青藍が大げさに肩を落とす。
「そうだな、文献があるとすれば――」
英海がものを言いかけると同時に、別の声が聞こえてきた。
「橘さん、どうしたのそんな恰好しちゃって」
声の主は研究室の四年生、奈蔵早霧だった。
「え、早霧さん! なんだか久しぶりですね。卒業論文ですか?」
「そうなの英海君。さすがにそろそろ研究しないとやばいかなって」
「いやいや御冗談を。とっくに研究は終わって、あとはまとめるだけですよね。そうじゃなきゃこんなにさぼってただじゃ済みません」
「も~~終わってないってば。論文にまとめるのも大事な研究活動の一つだよ?」
「またそんなこと言って……相変わらず要領だけはいいんですから」
早霧はいわゆる天才型で、これまでも飄々と研究を片付けている。英海もそんな彼女には敵わないわけで、昔から全幅の信頼を置いている。ただもう少し研究室に顔を出して、後輩の面倒を見てくれれば、とも思う。
「あの――」
話に入れず委縮したのか、青藍が恐る恐る声を上げる。
「そう、橘さん。ようやく研究テーマが決まったんじゃなかった? 悩みなら解決するよ、英海君が」
おい早霧さん。
「はい、ようやく決まって今理論について考えているところで――」
青藍が事情を説明している間、方策について思案する。
「英海君、これはあそこしかないかも」
「ですね」
「知ってるよね。初回は必ず上級生同伴だよ」
「もちろんです。しかし気が引けますね……」
英海と早霧はあきらめ顔で互いにうなずきあう。
「えっと、それって……?」
「橘、図書館に行こう」
こうして魔術大学が誇る知の宝庫そして屈指の魔境に足を踏み入れることとなった。
「入学するとき聞きました! 決して近づいてはならない図書館があるって」
図書館への長中、二人は大きなリュックサックを担いで人通りの少ない路地を進む。
「入学ガイダンスで念押しされたよね。といっても僕も二回ほどしか入ったことがないけど。……なんか橘、楽しそうだな」
「そうですか~? だってそんな場所に入れるなんてわくわくするに決まってます! それに先輩と、あ、いや、こんなに大きな荷物を持っていくなんて、なんだかハイキングみたいじゃないですか」
「気楽だな! いやそれくらいの心持ちのほうがいいか……」
リュックサックの中には携帯食、上着、懐中電灯等いざというとき活躍するようなものが詰め込まれている。簡易便所は使う機会がないといいなと思う。もちろん文献を持ち帰れるようスペースを空けている。早霧に荷造りを手伝ってもらい、二人はその足で図書館へ向かった。
「大学には合わせて七つの図書館があるんだけど、いずれも一筋縄ではいかない魔境になってるんだ」
「今から行くのは魔工学図書館ですよね?」
「そう、魔工学図書館は別名回廊迷宮ともいわれている。内部は迷宮になっていて、慣れない内は一人で入ると二度とでられないらしい。年に何度か救助隊が派遣されることもあるそうだ」
「どうして迷うんです? そんなに広いんですか?」
「まあ行ったらわかるかな。もちろん広いんだけど、なにより――おっと着いた」
お喋りはいったん中断して、図書館の扉を開ける。ずっしりと重い引き戸だ。
「ようこそ魔工学図書館へ。確認ですが、お二人はご一緒ですね?」
年を召した司書の女性に話しかけられた。この図書館では必ずこうして確認される。
「はい、こちらが初回入館なので、僕はその付き添いで」
「では用紙に必要事項をお書きください。それと通信機登録をお忘れなく」
英海は言われた通り名前や所属、学年などを書いたあと、通信機を受け取った。初回ということもあり青藍は追加で司書から注意事項を聞いた後、図書館エントランスにおいてひときわ目を引く扉の前に赴いた。
「どうかお気を付けて」
司書は厳重に施錠された扉を開錠しつつこう述べた。
二人は息をのんで、足を踏み出した。その先に待つものを知らずに。
つづく