イルゼ物語――第一段:なかかみ

「それでは本日歯石の除去をしたら治療はすべて終わりですので!少々お待ちくださいませ~」

魔力感応式の診察券を渡すと受付嬢が誰にでも見せる笑顔とともに今日の治療内容を伝えてくる。

嫌だ嫌だと思いながら1か月続いた歯医者通いも今日で終わりか、と思いながら受付を済ませ自分の番が来るのを待った。元々あった魔法の保護が切れて、銀歯のコーティングが剥げてしまったので1か月前から魔法による再コーティングと、新たにできていた小さい虫歯の治療をしていたのだ。

大人になってから定期的な検診以外で歯医者に訪れるのはなかなかに恥ずかしい。銀歯の魔法保護もその他の虫歯も、毎日の丁寧な歯磨きと魔術的メンテナンスをしていればこんなことにはならなかったのになあ、と思いながら荒れた口内を医者に見せなければいけない。日頃の不摂生を恨みながら。

普通の仕事をしている大人だったら1週間に1、2回歯医者に通うのも難しいだろうなと思う。ちゃんとした大人は私の倍以上の期間をかけてゆっくり治療をしていくことになるのだろう。詩人をしていると言いつつ、普段は街をふらふら歩いている私は幸い予約のとれる時間にくるだけでいいのだが。

「はーいじゃあ先生、治療室にどうぞ~」

声をかけられて待合室から治療室へ向かう。ここに通い始めてからいつからだろう、詩人であることがバレて歯科助手たちから先生と呼ばれることになってしまった。私の住んでいる下町では先生で通っているので、あの辺りの誰かが教えたのかもしれない。

治療室に通されて、いつもの一番手前の椅子に案内される。ここの歯医者には治療用の椅子が3つあるが、奥の椅子2つを使っているところを見たことがない。ハリボテの椅子なのかもしれないなと思いながら、誘導された椅子に座る。

「今日はもう歯石の除去だけなので、私が担当しますね~」

いつも治療をしてくれる先生ではなく、今日は歯科助手の娘が治療をしてくれるらしい。

言われるがまま、椅子の上に横になり石造りの天井を見上げる。口を大きく開けてくださいね~、という指示に口を全力で開けるが、治療中に疲れて閉じていく口を見てこの娘は何を思うのだろうか。

通常、歯医者では規格品の魔法石によって制限された出力の、風魔法と水魔法の複合魔法によって歯の治療が行われる。主に歯科助手が魔法石に定格の魔力を流し込んで、歯科医が最終的な調整と実際の施術を行う。難しいとされている合同魔法だが、魔法石がそれ専用のカスタマイズをされているためマニュアルどおりに使えば問題ないらしい。その話を聞いた時は技術の進歩に感心したものだが、歯が削れるときの直に伝わってくる感触と、甲高い音に関して改善する気はないのだろうか。歯科治療分野の魔法技師たちは、そんなことよりコスト削減や安定性の向上に心血を注いでるということなのだろうか。

魔法が発達している今、虫歯や歯石だけを分離させることもできそうなのだが。物体の源流が同じだから、健康な部分と虫歯部分を魔術的に別物として扱うことが難しかったりするのだろうか。

今歯石を取ってくれている歯科助手に聞いてみようかと思ったが、口をおっぴろげにしたまま言うことでもないなとそのまま治療を受けることにした。

キュイーンと音を立てながら魔術的ドリルが歯茎と歯の間を通過していく。歯石の溜まっているところはゴリゴリ削っていく感覚が顎まで響いてくる。歯石を除去されていくこの感覚は嫌いではない。今まで溜めに溜めた不摂生をすべて清算している気になれる。許されていく感覚を味わえるのだ。

歯石を受け身で取られていくだけの私がこれだけ気持ちいいのだから、実際に歯石を取っているこの娘はもっと気持ちいいのではないかと思って、どうなのか聞いてみたかったが、なんだかセクシャルな質問のような気がして結局聞くことはできなかった。

すっきりした気持ちで待合室に戻ると、順番待ちをしている親子がいた。歯科医の先生も、椅子も余っているのに治療を開始していないということはやはり奥の椅子は偽物なのでは?と確信を得たとき、治療室に呼ばれた少年が必死の抵抗を始めた。

言葉にならない魂の叫び。ふむ、職業詩人としてはこういった一幕を切り取ることができればこれ以上のことはないな、と感心してしまうほど全力の抵抗だった。

待合室の椅子に全身を使って抱きつき、嫌だ、と大声を上げる。いや、これはもう「嫌だ」とは言っていないな。ウルァァーーというか、声というより単純に音として捉えたほうが良さそうだ。叫び声でいうならバンシーかマンドラゴラか、そのレベルだろう。

親子と担当の歯科助手は大変そうだったが、私は治療の全工程を終えたので今回の代金を払い、「次回の検診でお待ちしてます!」と遠い未来の約束をして歯医者を後にした。

少年の叫び声を背にして、街に出て空を見上げると気持ちのいい夕晴れをした空が広がっている。淡く地平線から頭上の青空まで伸びる橙のグラデーションがある。治療を終えた晴れやかさとともに帰り道でワイバーンの唐揚げとラム酒を買って帰ることにした。


ドリル音震える我が子を送り出すマンドラゴラの悲鳴とともに

ーーアルベール・デュラン


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