月の光に当てられて:utatsu

「あれ、先輩もう帰りですか?」
十九時、帰り支度をする英海に青藍が声をかけた。
研究室にはまだ数名の学生が残り、皆自分の作業にあたっていた。普段なら遅くまで居残っている方である英海が、この時間に研究室をあとにすることは珍しいといえる。
「橘には言っていなかったっけ。今から天体観測にいくんだ」
「へぇー? そんな趣味があったんですね。楽しそうじゃないですか」
 青藍は意外そうに目を見開き、身を乗り出してきた。
「ああ、月課……って言ったらいいのかな? ひと月に一度は行くんだよ。橘も来るか?」
「いいんですか! ……っと、せっかくなんで行きましょうかね」
目を輝かせたと思ったら、慌てて落ち着いたフリをする彼女を微笑ましく思った。来てくれるのは純粋に嬉しい。何であれこの師弟関係の心の距離が少しは縮まるといいな、英海はそう思った。

早速青藍を引き連れて、目的の場所に向かう。
日も沈み、天気の良い夜が訪れたことに安堵しているところに、青藍が声をかけてくる。
「そういえば、観測用の道具はどうするんですか? 望遠鏡とか。今手ぶらみたいですけど」
「それについては心配ないよ。今向かっている高台で、その道のプロが待っているはずだから」
「……二人じゃないんですね。まあそんな気はしていましたが」
「大丈夫、プロっていうのは天文学部のやつなんだけど、多分色々教えてもらえるぞ。ここ最近の満月の夜は、ずっとそうなんだ」
 他愛のない話をしながら坂道を登る。

目的の高台には、すでに人影があった。
「や、ヒナ。お待たせ」
「こんばんは、ヒデ。ちょっと遅刻ね。あら、その子はだあれ?」
 ヒナ――椚陽菜乃はこちらに気がつくのと同時に、首をかしげて質問してきた。
 すると青藍は英海に向かって、声を抑えて叫ぶ。
(お、女の人だったんですね……! しかも美人さん! 毎月お二人で天体観測って、まさか……)
「ふふ、心配しないで。ただの幼馴染よ」
 その疑問に応じたのは陽菜乃だった。
「へ? お、幼馴染でしたか」
「――今は」
「っ……!」
「何を言ってるんだ、まったく。ヒナは悪ノリしないように。そう、ヒナと僕は紛れもない幼馴染だよ」
 青藍に説明しながら、おいてある機材を陽菜乃と手分けして組み立てていく。
「そうでーす。私は椚陽菜乃。天文学部三年でヒデと同級生ね! あなたはもしかして、ヒデの弟子の青藍ちゃん、かな?」
「私のことご存知なのですか……?」
 青藍は多少不審な目で問う。
「ええ、最近毎月相談を聞かされていたからね。初めて受け持った弟子が心を開いてくれないよ~って」
「こらこら! 恥ずかしいだろ!」
 陽菜乃の言葉を慌てて遮る。相談内容を本人に聞かれては敵わない。
 そういえば青藍と向き合って話をできるようになるあの件から、まだ一ヶ月も経っていないだと気付かされる。
「でもその様子じゃ、普通に話せるくらいにはなったみたいね。何があったの?」
「ああ、その節は感謝してる。何があったかは――また追々な」
「そう、いいわ。それにしても――」
 陽菜乃は目を丸くした青藍に近づいて――抱きついた。
「可愛い子ねー! 近くで見るとなおさらお人形さんみたい! ヒデが羨ましいわ」
「ちょ、ちょっと! えーっと、く、椚先輩! くすぐったいです! 助けてー先輩!」
「ははは……」
 英海は苦笑した。陽菜乃はこういうところがあるのだ。

「ふーっ」
 疲れたのか、青藍が大きな息を吐きながら腰を下ろした。
「一つ疑問なんですけど、どうして天体観測をわざわざ満月の夜にしてるんですか? 空が明るくて見える星も見えなくなると思うんですが」
 真面目な学生ぶりを発揮する青藍の問いに応えたのは陽菜乃だった。
「いい? 私達は実は、単なる天体観測をしに来ているわけではないの。あえて月を見に来ているのよ」
「は、はい?」
「あなたも魔術大学の学生なんだから、月と魔術の関係は切っても切り離せないことは知っているわよね。例えば西洋魔術ではアルテミス、日本魔術では月読尊というふうに、月の神たちと契約することでいくつかの魔術を発現させていると考えられているの」
「なるほど、さすが天文学部ですね」
青藍は話を聞きながら理解を進める。
天文学というと一般には宇宙物理学を指すらしいが、ここ魔術大学ではもちろん魔術を取り入れた天文学について扱う。ここの天文学部は宇宙の力を用いた魔術理論から風水や占星術まで学べる、国内唯一無二と言える特殊な学部だ。そのせいか、どちらかというと女性が多く志望する、高倍率の学部である。つまるところ、陽菜乃はその中を勝ち抜いてきた優秀なやつなのだ。
「月が魔術に対して及ぼす影響は計り知れないわ。とりわけ感情の制御には月の光は大きな意味を持つの。中世からルナティック、つまり月の光を浴びると気が狂う、と言われているようにね」
「ふむふむ」
 青藍がうなずく。
「他にも、世間では月の光で発電しようとするルナリング計画なんてものがあるけど、発電は表向きの理由。本当は魔術師たちが一枚噛んでいて、月からの魔術エネルギーを効率的に集めようとしている、とかね。それから――」
青藍の疑問に陽菜乃が的確に返していく。英海も時たま相槌を打ちながら、その様子を眺めていた。ああふたりとも楽しそうで良かった、と思った。
「いやー青藍ちゃん、飲み込みも早いしいい子だわ! 私の弟子たちも見習ってほしいわね」
「弟子たちとうまく言っていないのか?」
陽菜乃のように優秀な学生は複数人の弟子を持っていることは珍しくない。
「ちょっと弟子たちの間でね。でも多分大丈夫」
「そうか。何かあれば言ってくれ、な」
「うん、そうする」
 陽菜乃は肩をすくめながら笑った。
 夜も更けて来たところで、天体観測はお開きとなった。

「今日はとっても有意義でした! 天文学について詳しくなった気がしますよ。……それと信頼されてるんですね、椚先輩に」
 帰り道、陽菜乃と別れたところで青藍がつぶやいた。
「まあ、長い付き合いだし、多少はね」
「ふぅん。そういうの、いいですよね」
消え入るような声だ。
「僕は――橘のことも信頼してるし、お互いそうなれればいいと思ってるよ」
 人にはいろいろな距離感があるし、ゆっくりでも良い、信頼を構築していけたら。そんなことを考えていると、不意に青藍に袖を掴まれた。
「――!」
「ちょっとこのまま歩きませんか?」
「……構わないけど」
 照れ隠しのように笑う彼女に、心が落ち着かなくなる。
「――私も月の光に当てられてしまった、のかもしれません」


前回「すりガラスごしに」の続きです。


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