禁階段:さしま

朝5時30分、目を覚ますと同時にアラームが鳴る。俺はベッドから起きて、洗面台に向かい、洗面器にお湯をためて顔を洗う。目から鼻まで丁寧に洗うが、耳の穴まで洗う人間は少ないだろう。剃刀で髭を剃り、歯磨き粉はつけずに丁寧に歯を磨く。

大根を切り、麦味噌を溶かし、昆布と煮干しでダシをとって味噌汁を作る。卵をフライパンに落として目玉焼き、ほうれん草のおひたしをつくる、あとはごはんを温めて朝食とした。

食べ終わると改めて歯磨き粉で歯を磨き、デンタルフロスとモンダミンで仕上げ。

時計を見ると6時10分、アパートの一階を出て、3つ先の駅へ歩き出した。最寄りの駅にはエレベーターがないからな。40分たっぷりかけて駅まで歩く。電車を降りる駅も会社から1駅離れた場所と決めてある。

会社はビルの二階にあるが、これもエレベーターを使って上がる。階段は使わない。 「おはようございますー」 7時30分、まだだれも出社していない。タイムカードを押して、自分のデスクに向かった。

そう、俺は絶対に階段を使わない。絶対に。 これは修行なのだ。 階段を使わない修行から悟りを開こうとしているのだ。

2010年、俺はインドで修行をしていた。ヴィパッサナーといわれる瞑想法がある。通常は10日のあいだ、携帯やインターネットから切り離されて、さらに他人と一切のコミュニケーションを禁じられて瞑想を行う。朝の4時から夜の9時まで、生活行動以外はすべて瞑想。多くの人には苦痛な修行で挫折する人も多い。

当時俺は付き合っていた彼女が浮気をしていたことが発覚し、有給でやけくそ気味にインドへ行った。 山奥でいくら瞑想を行おうが悟りは開けなかった。それどころか誰とも話さず、ひたすら座っていることは、なんのことではなかった。当時の俺は自殺か解脱か、だったのだろう。 そんなとき師匠が言った、「お前には素質があるな。ほとんどの人間は、瞑想で得たことを忘れてしまう。届木よ、これからお前は階段の使用を自分に禁じるのだ。階段なしの生活はつらい。ゆえに日常から悟りが開けるはずだ。」

8時20分、後輩の山口が出社してきた。この部署では俺の次に朝が早い。 「山口おはよう」 「あ、おはようございます!」 向かいの席に座ってから山口は質問してくる。「届木さん、そういえば20日の飲み会参加しますか?」 しまった。参加のメールに回答するのを忘れていた。 「飲み会って、どこで開催するんだっけ」 「『なごみ 吉祥寺店』ってとこですよ」 「ああ、どうだったか。ありがとう。参加の可否明日まで待ってくれない?」 「全然大丈夫ですけど、届木さんなにか用事でもあるんですか?」 「いや、全然たいしたことじゃないんだけど。。。」 いや、大した問題があるのだ。 もし店が階段しかなかったら、どうする? 俺は店の前で引き返さなきゃならない。突然飲み会をバックれたら山口だけじゃなく、みんなに迷惑がかかる。

帰りがけに吉祥寺に寄って下見をすることにした。吉祥寺駅はエレベーターと車いす用のスロープで幸い、無事におりることができた。ここまでは順調だな。

スマホの地図アプリを頼りに「なごみ 吉祥寺店」まで歩いていく。店は一階だ。安心しかけて、すぐに罠に気が付いた。 改築のあとか、坂が多い地域なのか、店の前に5段の段差があるじゃないか。 段差は敵だ。1段くらいの段差は階段ではないが、5段もあればれっきとした階段だ。 今回の飲み会は断るか。

山口に飲み会は欠席と連絡しようと携帯でメールを作っていると、にゃにゃー泣く声が聞こえる。

猫だ。どこからだろうと周りを見ても見当たらない。 上を見ると、マンションの何階だろうか。子猫がベランダからぶら下がっているではないか。 爪をベランダのへりにひっかけて、小さい体をギリギリで支えている。

助けなければ。 そう思ってマンションのエレベーターへ向かう。 エレベーターの扉に貼られた「故障中」の文字が俺を絶望させる。 なんでこんなときに、故障してるんだ。 となりに階段はあるが、これは俺選択肢には元から入っていない。 修行の掟に背くことはできないんだ。 再度マンションの玄関まで走って出る。誰かに助けてもらおう。

「おい!そこの君!」 そこらを歩いていた小学生男子に声をかける。 「あそこに子猫がいるじゃないか!早く部屋の人に知らせて上げなさいよ!」

「ひぃー!!」 小学生は顔を引きつらせ、回れ右して走り出す。 逃げられた。

もう、俺が行くしかないのか。マンション6階を見上げる。階段を使ったら今までの修行はなんの意味もなくなるんじゃないか。

しかし迷っている場合ではない。息を吸い込み駆けだす。玄関から階段へ。1階から6階まで一気に駆けあがる。 この10年間1度として破ったことがないルールを破ってしまった。

確かこの部屋だったよな。602号室のインターフォンを押したり、ドアをドンドン叩くが返事がない。当たり前か。 となりの部屋のインターフォンを押すと、年配の女性の声が帰ってきた。 「すみません、となりのお部屋で猫が落ちかけてますよ」 「え、そうなの。見てきますね。」 「もう、早くしてくださいよ!」 思わず声を荒げてしまう。 じれったく待っていると、茶トラの柄の子猫を抱えた女性がドアを開けた。 生後数か月といったところの子猫は、抱っこされておとなしくしている。 「よかった。猫、たすけてくれたんですね。。」 「え、いやてっきり変な人かと思ったわー。この子、となりのご家族がが最近買い始めたらしいんですよ。」 「あはは、そうですか」

家に帰ると老人が玄関の前に立っている。 「階段を遂に使ったな」 師匠!インドからこんなところまで!? 「申し訳ありません師匠。子猫を助けるためでした。」 「分かっておる。ついに悟りを開いたな、届木よ。」 「そうですかね。やっぱり僕には分かりません」

「それより、なにかやり忘れたことがあるんじゃないのか?」 そういえば山口にメールしてなかったな。飲み屋の前の5段だけの階段を思い出す。 「まあ、5段だけなら飛び越せばいいか。。。」自分に言い聞かせてみる。 飲み会へ出席する旨のメールを送った。


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