怪しの月:なかかみ
怪しの月
なかかみ
今日は月の明るい夜だから。二人で暮らしている母さんが久しぶりに外に行きたいと言うので、海岸まで歩いてやってきた。漁場は仕事をするとき以外は入ってはいけないことになっているから、崖の方まで歩いて来るのは骨だったが、ここは海がよく見える。
仕事でもねえのに用もなく漁場にいるところを見られて変な噂でもたったらめんどくせえからな。この村には娯楽がすくねえんだ。
傾斜の大きい道は、母さんをおぶさりながら歩いていく。漁で鍛えられた平吉の肉体におぶさる母の体は、普段は床に臥せっていることもあってあまりにも頼りなかった。手を離したらどこかに消えてしまうのではないか。そのくらいのかすかな存在に思えた。
母さんはやっぱり海が好きなんだな。潮風を浴びながら崖際を歩いていく。夜月が海面に散らされて光っている。なあ、薬もそんなに買ってやれねえけど外に出て歩きたいなんて元気があってよかったよ、毎日漁で朝早いからそんなに頻繁にはこれねえけどたまにはいいもんだな。
トン、と背中を押されたような気がした。いや、押したのかもしれない。後ろを振り返ってみると何もない。誰もいない。広大な海と月が広がっているだけだ。
母さんはどこだ。崖に身を乗り出すと真下の海の中に母の姿を見つけた。
「母さん!」
俺はどうすればいい?俺がこの海に飛び込んで母さんを助けられるのか?この高さで?でもこのまま俺が何もしなかったら―――いや、俺は今何を考えた?今、何を考えている?
大きな月だけがこちらを見ていた。
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妹のツバキが同じ長屋に住んでいる平吉の情報を聞きまわっていることを、仕事終わりにハチさんから教えてもらった。
長屋に帰ると、
「おいツバキ。お前また何かこそこそ嗅ぎまわってるらしいな。噂好きもほどほどにしておけよ。」
とたしなめておいたが、当のツバキは真面目に聞いていないようだ。
江戸にほど近いといえども、この漁村はかなりの田舎だ。この狭い社会で、できるだけ目立つ行動は控えてほしい。男一人、女一人の兄弟二人がこの田舎町になじめなくなった時に、生きていく手段はあまり多くないのだから。
「そうはいってもねぇ、噂を聞いちまったんだよ。月の出てない夜にだけ平吉さんが海の方に出かけていくって。今週の長屋の夜番は兄さんだろ?夜の見回り手伝ってあげるよ。」
ツバキはにこにこと、新しいおもちゃを見つけたと嬉しそうにしていた。刺激の少ない漁村だからある程度は仕方ないか。一人でいろんな所に首を突っ込むよりはいくらかマシだろう。
夜になって番をするための提灯を準備していると、ガサリと物音がした。
「平吉だよ、兄さん。今日は曇りで月も出ていないし、噂通りだねぇ。」
外を覗いたツバキが言う。戸の隙間から覗いているツバキの上から外を見てみると、確かに平吉だった。しかし、やたらと周りを気にしている様子だ。こんな田舎では明かりもそう多くはないのに何を恐れているのだろうか。
平吉は何か視線を気にした様子のまま海の方へと向かっていった。
追いかけるよ、と言って外に出たツバキは俺の制止を完全に無視して平吉の後をつけ始めた。
平吉の後を二人で追っていたら、崖の方までやってきてしまった。この悪路を平吉はよく提灯もなしに歩けるものだと感心していた。まあこの時間、漁場は閉鎖されているので、長屋からこの方向に行けばこの場所くらいしか行くところはないのだが。
崖の周りは開けているので、この先に行くと平吉に見つかりそうだなと思っていると彼の後ろ姿が見えた。
崖を覗き込んで何かを探しているように見えた。何をしているのだろう、と不用心に平吉との距離を詰めると平吉は後ろを振り返った。俺たちを見つけた平吉は鬼気迫る形相で口走った。
「やっぱりお前ら見てたんだな、ずっと月に見られてる気がしてたがそんなはずはねえ。」
そのような訳の分からないことを吐きながら、俺たちから距離を取るように後ずさっていく。
雲の切れ間から月明かりが射してきた。
少し落ち着け、と平吉に語りかけるがその言葉は届かない。
平吉は、許してくれと焦点の合わない目でなぜか俺たちに許しを請いている。いや、その目は俺たちを見ていないようだった。
そのまま見えない圧力に押され、後ろに下がり続けた平吉は崖から落ちてしまった。
俺の持っている提灯の明かりが崖下の平吉を探したが、荒々しい海面を照らすだけだった。
数日後、件の崖の近くで漁をしていた漁師が遺体を二つ引き揚げた。平吉の母の遺体と思しきモノは損傷が激しく、遺体となってからかなり時間が経っていたようだった。
「あの時の平吉さんには何が見えてたんだろうねぇ。」
月が光っているとき、そこには見えなくとも太陽の存在がある。結果しか見えていなくても、因果が想像できたとき、その原因の方も確かな実感を持って存在してしまう。
本当は何も原因がなかったとしても、結果が見えてしまったなら。そういうふうに見えてしまったなら、それだけで平吉が心を壊すには十分だったのだろう。
崖から飛び降りる直前、平吉から俺たちの姿はどういうふうに見えていたのだろう。月明りで俺たちの顔が、あいまいに見えていたとしたら、それはどれほど恐ろしいものに見えていたのだろうか。