壁:なかかみ
壁
なかかみ
「工事の予約、済ませといたから。」
千恵子はそれだけ伝えると、忙しそうにリビングへと戻っていった。
もう少し俺にも相談しろよ、と文句の一つでもつけたかったが、あの状態になると聞く耳を持たないのは何年もの共同生活で分かっている。リビングに戻った千恵子は、俺の仕事場の壁を一面すりガラスにする段取りを進めている所だろう。
俺がフリーランスで働き始めたのが2か月前のことだ。元々エンジニアとして会社で働いていたが、技術と人脈を十分に得たので、今では家からサーバーの管理などを行っている。
会社で働いていた頃は昼夜もなく働きづめで、家庭の時間を取ることもできなかった。それがフリーランスになることで、職場に縛られなくなる。今よりもっと家庭の時間をとれるぞ。そういうことを千恵子に話したのだが、芳しい反応は得られなかった。というよりも、反応がなかったといったほうが正しいだろうか。「そうなんだ。」とだけ言って、テレビを見続けていた。会社を辞めるという人生の決断に対する、千恵子と俺の気持ちの噛み合わなさに何かスカされたような気がしたが、まあそんなものか。千恵子にとっては生活を維持できればそれ以外のことは、些細なことに過ぎないのだろう。自分以外のことには興味がない女だっていうのも知っていたし。でももう少し興味を持ってくれてもいいんじゃないのか。いや、そんなことはないか。
結局、俺は千恵子から肯定も否定もされることのないまま、会社を辞めて職場を自宅に移した。特にオフィスがなく仕事する人たちにとって、自宅と職場が同じというのは仕事にメリハリが生まれずどんどんとダレていってしまうので、結局自宅以外の仕事場を用意することになるらしい。コワーキングスペースもその一環だろう。しかし、俺は自宅と職場が一緒でも問題ないらしい。そもそも俺は移動時間は人生の浪費だと考えているタイプの人間だ。寝室から仕事場まで所要時間数秒。あまりにもドア・トゥ・ドア。最高じゃないか。
サーバーの管理なんかをしていると、たまに緊急で深夜に作業をしないといけない時もあるが、寝ていても職場にいるようなものだ。会社にいかなければ作業できなかった頃に比べれば楽なものである。
俺はそういった環境の変化を満喫していたが、環境の変化を感じていたのは俺だけではなかったらしい。
「そこの壁をすりガラスにしちゃいましょう。」
リビングでテレビを見ていると、ソファーに座っていた千恵子がそう言った。
千恵子の言った言葉の意味を捉えかねていると、
「家で何してるか分からない人がいると、ずっと意識しちゃうのよね。だから、すりガラス。別に普通のガラスじゃなくて、すりガラスでいいのよ。何してるかは私が見てもわからないだろうから。ただシルエットでもいいから、何か活動してるんだなってわかればいいのよ。」
と、俺に理解させる気があるのか分からない説明をしてくれた。
「それか、あなたの仕事場の機械たちをここに持ってくる?私はそうしてもいいけど、でもそしたらご飯食べる場所がなくなっちゃうわね。」
ああ、こうなっているならもう千恵子の中では決めてしまったんだな。俺はそのことを理解すると同時に諦めた。
千恵子が何かを提案する時は大概一緒に代案を提示してくれるのだが、その代案を千恵子自身まったく実現する気はない。二つの案の中から一つを選択させた気になって、議論した感じを出したいだけだ。この状態になったならもう仕方がない。
分かった、じゃあそうしてもいいけどどうやって実現するんだ?千恵子にそう聞くと、もう調べはつけていたようで、
「よかった。じゃあ話を進めていくわね。」
と言って、寝室に行ってしまった。
仕事場とリビングを隔てる壁をすりガラスにすることが決まってからは早かった。工事日がいつなのかは俺には知らされてなかったが、あの提案をしてから数日で工事が始まった。壁を一つぶち抜いて、すりガラスに変えるだけなので作業自体は一日で終わってしまった。俺にとっては望まぬ工事だったが、こういう業者の作業は見ていて気持ちがいい。動作の機敏さにほれぼれしてしまう。体の動かし方、エネルギーの伝達の仕方が違うのだろうな。特に何に使うわけでもないが、工事の様子を録画して後で見返そうか。そんなことを考えていたら、気が付くと壁がなくなって、すりガラスをはめ込むだけになっていた。
今までは最高の仕事場だったのだが、環境を大きく変えられて作業効率はどうなるのやら、と心配していたが存外この環境にも慣れてきて、悪くないと思うようになってしまった。そもそも壁が変わっても立地は変わらないので、会社に通っていた頃に比べれば最高の仕事場であることに変わりはない。また、これを間接照明と言っていいのか分からないが、今まで白色蛍光灯の人工的な光だけで作業していたのが、リビングからの光でいくらか健康的な照明となっている。
それに、千恵子は俺の様子を確認したいからと言って壁をすりガラスにしたが、逆にこっちからもリビングの様子が見られるのだ。もちろん常にすりガラスに目をやっているわけではないが、ふとしたときに目をあげると千恵子の存在を感じられるのは悪くない。この摺りガラスはそこそこ分厚いので、音は聞こえないが人のシルエットは割と分かる。別に俺は監視しているつもりはないが、状況でいえば対称なのだ。お互いに監視し、監視されている。これはこれで一つのコミュニケーションなのかもしれない。
俺がこの環境にそこそこ満足していると、千恵子が提案をしてきた。
「工事の日程何日がいい?」
次はこの壁をマジックミラーにするつもりらしい。
「別にあなたの部屋の方から、リビングが見えるようにしてもいいわよ。この壁がでかい鏡になると思えばそれも便利で、アリかもしれないわね。」
いつものように千恵子は実現する気のない代案を提示してくれた。