エレベーター:さしま
「今度の夏休み、月に行ってきたら」 朝食のとき、イツキの母親が無茶な提案してしきた。突然、月に行けと言われイツキは飲んでいたコーヒーでむせてしまう。母親の兄、つまりイツキの叔父が月面で仕事をしている。そこへ遊びに行ってこいというのだ。太っ腹にも旅行代は半分出してくれるし、滞在費も面倒をみてくれる。仲が良い兄妹なのは知っていたが、子どもに黙って旅行の根回しをしてしまうとは。
イツキの家、上島家は裕福な家ではなかったが、青春18切符を使って行けば月まで安上りにいける。なおかつ叔父の家族が滞在中は面倒をみてくれるというので、イツキの母親は乗り気だったわけだ。100万円は決して安い金額ではないが、月に行って帰ってくるには破格に安い。
子どもに旅行をさせたい親は結構いるもので、イツキが高校1年のときクラスメイトはインドに旅行にいって少し話題になっていた。インドで食中毒になって1週間寝込んだ友人の話を思い出して不安になる。彼は一ヶ月近いインド旅行のうち、一週間をゲロと下痢に苦しんで過ごしたのだ。イツキにはわざわざ旅行に出掛けて、おまけに病気になるなんていやだった。もちろん旅行に興味がない高校2年生の頭にも、宇宙はたぶん清潔だから、食中毒はないんだろうとは分かっていたのだが。
それよりも憂鬱になるのは移動の話。インドへ行った彼は高原をひたすらバスで移動しているとき、暇でしょうがなかったらしい。イツキはそれを思い出して、旅行のつまらなさに絶望する。月に面白いものなんてないんだろうと思うと、母親の勝手な渡航の予約にイツキは腹を立てていた。
次の日の朝食の時、イツキが起きてくる時間には珍しく、父親がまだ朝食を食べていた。父親に月に行きたくないことを相談してみる。 「母さんも賛成しているし、お金は出すから行ってきなさい」 いつもこうだな、イツキはちょっとでも父親が味方してくれることを期待した自分を馬鹿らしく思う。世間的には良い父親だろう。でもお前がどこに行こうが知ったことではないと言わんばかりの態度、なんで相談してしまったんだ。父親の気に入らないところをリストアップしながら家を出ると、朝の白い月がまだ空に浮いていた。
夏休みが始まってから出発の日、イツキの母親と小学生の妹が成田空港まで送ってくれた。 夜の空港で受付を済ませた後「私も行きたいなー、お姉ちゃんお土産よろしくね」妹は無邪気な頼みごとをしてくれる。 「私とお父さんのお土産はいいから、ちゃんとかえってきなさい。」 イツキは16年の人生で初めて飛行機に乗った。飛行機の窓際の席から夜の黒い雲海を見下ろし、イツキは自分がこれより高い場所に今まさに向かっていることが信じられない。新幹線にも船にも乗ったことはなかったが、飛行機に乗ってから、さらに宇宙エレベーター、ロケットに乗ることになるのだ。シンガポール行きの飛行機は何事もなく離陸して10時間後、何事もなく着陸してくれた。
ここシンガポール空港からバスに乗り、人工島まで行かなければいけない。沖の人工島に着いたら、受付を自分でして、検疫があって、そこからやっと軌道エレベーターに乗れるのだ。飛行機の中で仮眠は取ったが、体がバキバキだ。イツキはこれからの手続きの面倒くささに辟易して、このまま日本へ帰ってやろうかと思ったが、彼女には自身にそこまでの根性も両親への反抗心もないことに気が付いてやめた。このまま母親の予約通りにことを進め、惰性で2週間の月旅行を過ごそうと決めてしまった。
高速バスのなかから朝日を背に見えるエレベーターは文字通り山のようだ。イツキの住んでいた静岡市の川辺からみえた富士山、これを思いっきり縦方向に伸ばしたようなメガストラクチャー。出発前母親はピラミッドみたいでしょ、と説明してくれていたがイツキにはこれは地元の富士山にしかみえない。エレベーターの基部まで、一時間近くバスに揺られなければいけないほど遠いのだが、それでも頂上がかすんで見えない建造物は確かな存在感をもって待ち構える。厚い空気の向こう、構造の頂点からはワイヤーがむき出しになる。はるか先まで、どうやら月と地球の3分の1くらいまで延びているらしい。
バスにのっているほかの人間はイツキの他にはアジア人が半分といったところ。しゃべらないから、彼女のほかに日本人がいるかなんて分からなかった。バスのもう半分はインド人、白人、黒人、アラブ人、イツキにはだれがどこから来たかなんて知らないが、10代の女子はもちろんイツキ1人で、自分が浮いているのは確か。バスはクーラーがついていたが、真夏の午後の日差しで意味をなしていない。大人たちはゆでだこになっていたが、Tシャツ姿のイツキも暑さで死体のようだった。
人工島へ着いて、イツキは叔父の家族へのお土産を忘れていたことに気が付いた。うなぎパイの詰め合わせを、母親の車に忘れてきてしまったのだ。イツキの母親がメールを寄こしてないのは、トランクに詰めっぱなしということだろうか。シンガポール宇宙港の免税店で買ってごまかそう。イツキは割高のマーライオングミを買って、検疫へ向かった。
終わり!!